●富田林高等学校校章
明治34(1901)年、6月13日、本校は第8番目の大阪府立中学校として開校した。創立期、生徒の帽章は、六稜(「中」の字を図案化したもの)に八の字をあしらったデザインが長く続いたが、昭和2(1927)年に、六稜に菊水のものへと改定された。これは八尾中学校の生徒と間違われるという理由からであった。
校旗についても六稜に八の字をデザインしたものであったが、帽章とともに菊水の校旗が新たに制定された。(「富田林高校百年誌」より)
現在の富田林高等学校の校章は、その伝統を受け継いでいる。
ちなみに「菊水紋」は、楠氏の代表家紋で、楠木正成の旗として用いられたものを源としている。建武の新政が成った時、楠木正成は後醍醐天皇からその功績として「菊紋」を下賜されたが、畏れ多いとして半分を水に流した「菊水紋」にしたとのいわれが伝わっている。「楠氏系図」によると、後醍醐天皇が盃に菊花を浮かべて正成に下された故事に由来する。
●富田林高等学校校歌
楽譜 | 音楽 | |
校歌 | 再生 | |
富高応援歌 | ||
富高節 |
浅野光次元事務長の生前の談話によると、 中学校が明治34 (1901) 年4月開校して、校歌を作ることになり、 唱歌受け持ちの内田愛蔵教員心得(南河内地方の中等教育振興に多大の功績のあった人。 後、府会議員をつとめた) が、当地方出身の大阪府師範学校生徒に、中学校で歌うのに適当な歌はないかとたずねた。 この生徒は、同じく師範学校生徒であった浅野氏に相談した。浅野氏は、師範学校が新校舎落成式 (明治34年6月11日) に歌う予定で新作した校歌を提示した。 大里校長は、その曲をそのまま借用することとし、これに合うように詞を作った。明治34年6月13日配布の現況報告書に見える校歌の歌詞は次のようである。
- 朝に仰ぐ金剛の峯
夕に渡る石川の水
アゝうるはし
アゝうるはしき南河の国土
この自然を朝な夕なに
学びてん - 千早城頭観心寺畔
千古絶えせぬ菊花のかをり
偉なる哉
アゝ偉なる哉吾等の祖先
いでや学生われもみくにの
をのこなり
それから間もなく、次のように改作された。
- 朝に仰ぐ金剛の峯
夕に渡る石川の水
あゝ麗し
あゝ麗しき南河の国内
この自然をば
朝な夕なに学びてん - 千早城頭観心寺畔
千古絶えせぬ菊花の香
あゝ偉なるかな
あゝ偉なるかな吾等の祖先
いでや学生
我も御国の男の子なり
この歌詞は、その後長く歌い続けられて来たが、昭和23 (1945) 年新制高校になるとともに、女生徒が入って来るにおよび、二番はふさわしくなくなり、一番の詞だけが歌われるようになった。 歌いつつも、一番だけでは何かあっけなく、物足りなさを感じていた。 ここに80周年を記念して、新しく2番、3番の詞を作ることになり、昭和56 (1981)年6月全生徒から歌詞を募集した。多数の応募作品の中から、佳品を得て11月5日2 番、3番として正式に選定された。 今後この新しい校歌が力強く歌われていくことだろう。